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仮置きの方法論

長谷川新氏

飯島暉子の展示を観てどう思われただろうか。結果として示される飯島のしごとは、少なくない人々を当惑させただろう。わかりづらいままでいるということは、それ自体が、意味や効果を執拗に説明させようとする現行のシステムへの静かな「抵抗」になっている。しかし他方で、飯島は自分がなしている行為についてかなり整理ができているほうだとも思う。いわば、まっとうにコンセプチュアルであり、美術制度に習熟した者が見れば、見慣れた(見飽きた)美的態度に感じられるかもしれない。

飯島はこのようなふたつの眼差しのあいだのエアポケットにいる。本稿は、神秘化と陳腐化のあいだのエアポケットから、飯島のしごとの「実際」を可視化することを目指す。

飯島の展示のアウトプットはささやかなものであるが、なされている労働量は想像以上に多い。飯島は展示の前には必ずその場所を清掃するし、何日も会場に通いつめることもある。見た目の繊細さに反して多大な労力がかかっている、だからすごいのだーーというふうに飯島の作品を「キャプションの側」から補強することはすべきではない。ここで言いたいのは、飯島が独自の「高い解像度」を持って行為をしているという点である。飯島の作品制作の「手順」も「美意識」も、この「解像度」によって半強制的に要請されたものだ。

飯島はこの二年間のあいだに、関心のありかが「仮設」や「 仮置き」に向かったと述べている。「リサーチ」で言えば、墓の調査を繰り返し行ったようだ(筆者もまた飯島と埼玉の吉田百穴や福岡の古墳を訪れた)。だが「仮設」と「墓」は直接的にはピンとこない。この飛躍に飯島の「解像度」を共有するヒントがある。

火葬ではなく土葬によって死者を見送る習俗をもつ地域では、「埋め墓」と呼ばれる遺体の埋葬地と、「詣り墓」と呼ばれる故人を追悼する場所が分離している(両墓制)。飯島はその「解像度の高さ」から墓一般に並々ならぬ畏敬の念を感じていたが(ありていに書けば、自分が今いる足元に死体が、人間がいることを強く受け止めていたが)、「詣り墓」においてはそこに死者は埋葬されていないのである。

これに近しいエピソードを筆者は安曇野のちひろ美術館で聴いたことがある。絵本作家のいわさきちひろは、かつて広島を訪れるも、自分がいる真下にまだ子供の亡骸が埋まっているままかもしれないと思い夜も眠れず、ついに原爆資料館にも行くことができなかったという。だが飯島のそれはちひろのような感情移入の強さとはまた異なるように思われる。

それは、展示前に展示室を掃除する作業が、そこにかつていたであろう他者に「触られる」時間であるような、解像度の高さである。たんなる塵や埃ではなく、かつてここにいた誰かの衣服や皮膚(!)の一部が、今、ある。過去の時間が解凍され、具体的であるが刹那的な状況が剥き出しになる。飯島はそれを自分ごととして捉え、それを制作という形で「どうにかしている」。

そう、「どうにかしている」のである。飯島は「人体も含めて、質量を持つすべての存在は移動のなかに身を置いている」という視点から今後展開を見せていくという。もちろんこの考えは正しい。だがこれは、たんに「万物は流転する」だとか「盛者必衰」というような達観であってはならない。仮置きであるほかない状態に身を浸しながら、それでもなお、「墓 / 展示」には形をとどめようとした痕跡があり、その場所がそのような場所であることを望んだ人がいる。考えるべきは積極的な「仮置き」の方法論だ。高解像度の情報を汲み取り、仮設的な生を誰よりも重く受け止めてしまう飯島にとって、リサーチトリップは情報「収集」ではありえない。